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これは本当にやりたいことなのかな?と思ったら



これは本当にやりたいことなのかな?

 

そんな疑問を持って立ち止まることは、ある段階ではとっても大切なことだと思います。

 

次のステージに変わる時期だったり、やりたいことと思ってたけど実はやらなきゃと思ってたことだったなんてこともあるから。

 

 

 

でも、やってみる前から、またはちょっとやっただけの段階で、

これは本当にやりたいことなんだろうか?

と、踏み出すことを躊躇したり、始めてもすぐやめたりしてきた挙句にさまよい続けた私としては、これについては一応 ちょっと待って と言いたい。

 

本当にやりたいことなのかな?

その奥にある気持ちはなんだろう?

 

 

 

私の表面にあったのは、

本当にやりたいことだったらこんな気持ちにならないでしょう?

本当にやりたいことだったらもっと動こうとするはずでしょう?

本当にやりたいことだったらきっとすーっと進むはずでしょう?

本当にやりたいことだったら…

本当にやりたいことだったら…

っていう、いつ何を見てそういうことにしたのかわからない指標。

 

きっと、本当にやりたいことをやってそうなキラキラしたあの人やこの人に見た幻想。

幻想じゃないかもしれない。

そうとわからないくらいのどこかで採用したあれこれ。

 


本当にやりたいことなのかどうか?

 確信めいたものを欲しがっていたとき、その奥にあったのは


これで間違いないですか?

これならうまくいきますか?

これなら遠回りしなくてすみますか?

これなら損しないですみますか?


という考えでした。

 

これにかける時間、お金、もったいないことにしないですみますか?

やってみたのにうまくいきませんでした。そんな恥ずかしい想いをしないでもすみますか?

自分にガッカリしなくてすみますか?

 

そんな気持ちを吹っ飛ばすくらいの‟やりたいこと”と出会うのをずっと待ち望んでいたように思います。

 

結局、それを理由にしてやらないことを選んでた。

そのときはやらなくていいことだったのかもしれないです。

 



ただ、やってみる ってことをしないと物語は展開しないみたい。

 

うまくいくかはわからない。

始めてすぐにやめることになるかもしれない。

それでもやってみようかなって思うことがあったら、今できることはなにかな?って目で見てみる。

 

そうして、やってみたいという自身の気持ちに応えていくことが、次のステージに連れて行ってくれる。

 

 

 

形としては小さな一歩でも、何にもならなそうな一歩でも、琴線が触れたものに踏み出してみる。

それが、遠回りでも近道でもなく自身の道をつくることになっていく。

 

その一歩がわからないというときは、今を楽しむ一歩を踏み出してみる。

 

ちなみにここまで書いておいてなんですが、さまよいながら自分の答を見つけにいくのも悪くないです(経験者談)

  

どの道自分で選んだ道しか進めないのだから。

 

これを行く!そう力強く決めるとき、どんな道も冒険になる。

 

そもそも、どんな人生もひとつの冒険物語なのだとしたら?。

いっそ意識的に冒険者になってみるのもいいかもしれない。


冒険者か…とひるむ気持ちもある。

ひるむ気持ちも一緒に、そこに立ったら良いのですよね。

 

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